8月6日も終わろうとしています。

昭和20年8月6日(月曜日)世界で初めて原子爆弾が広島に投下されました。
一瞬にして、本当に一瞬にして全てのものが広島の町から消えてしまいました。
当時私の母親は広島から島根県疎開していました。母の妹は(叔母)一人で広島に残って広島市役所に勤務していました。その頃の広島は一度も空襲にあわず、軍部の中枢である、大本営が広島に置かれていた事もあり、広島市民は軍部から疎開命令が出ていても、
大本営があるからと安心していた様です。母親の胸騒ぎとでも言うのでしょうか、
何としてでも妹を疎開先へ連れて帰ろうと、島根県疎開先から夜通し歩いて広島に向かったそうです。(片道40kmはあります)
ちょうど、島根県から広島県に入った処の幕之内と言うトンネルを通り過ぎた時、突然、
閃光が走り、少し時間がたってからこの世のものとは思えない大音響が響き渡ったそうです。近所の人達は陸軍の広島工廠の弾薬庫が爆発したのだろうとのうわさでした。
母親は何か胸騒ぎがおさまらず、広島市役所へ急いだそうです。ところが広島市内に近づくに従って、火傷の人や衣類がボロボロの人がみんな島根県へ向かって無言で移動している様を見て、逃げまとう人に広島市内の事を聞いても状況がつかめなかったようでした。
それでも、通りすがる人に聞いてみると、「広島市内は生き地獄。入ったらいけん」
段々市内が近付くに従って、言語に絶する光景を目の当たりにしました。
その時の事を母親はいつも「ざまは無かったな」が口癖でした。そして、いたるところで、「水をくれ」「水をくれ」と言っていたそうです。
母親も完全に被爆していますし、被爆した水も飲んだみたいです。
妹や友人、知人を探しましたが、見つかりませんでした。目印になる建物が無くなっていて、川と橋がせめてもの道案内だったと言っていました。当然「黒い雨」にも遭遇したとの事でした。
初日は途方に暮れて、横川駅の知り合いを・・・まさかと思いながら行ってみると、無事な姿で再開出来たそうです。そこの家も爆風であとかたも無かったそうです。その夜は、
真夏と言うのに怖さで震えて一睡も出来なかったそうです。食事もしていません。
結局、叔母の消息は分からずじまいでした。その後毎年、慰霊祭には出席していました。
もう一人の叔母も市役所の叔母を探しに(母親が止めるのも聞かず)広島市内に入り、
被爆してしまい、その後白血病で亡くなりました。本当に沢山の人々が一瞬にそして、
何年も何十年も苦しんで逝かれました。
母親は94歳まで元気に生かせて頂きました。
人には言われない光景を目の当たりにした事と思います。
結局、母親は原爆手帳をもらっていません。今の時代ですとなんで交付してもらわなかったのかとお思いでしょうが、その当時は被爆手帳を交付してもらったら、とんでもない差別的な扱いを受けていたようです。そんな話を聞かされて、同じ日本人がと・・・幼心に思った事を覚えています。

昨年の福島の原発事故で、色々な知識人が人ごとの様に原発の恐ろしさを語っている光景を見ていますと、なんと無責任な人達かと思う場面が沢山ありました。
私も被爆二世ですが、白血球の数値が健康体の人の3倍以上あります。
小さい頃は出血したら血が止まらず、一時は命にかかわる状態もありました。
今では、お陰様で人並の生活をさせて頂いています。しかし、生と死の板挟みの恐怖は、
被爆一世も二世も同じなのです。一旦、人間が被爆したらその恐怖は死ぬまで消えません。
本当に怖い物質なのです。

私も還暦を無事乗り越えました。
これからは本当に今まで生かされたことへの感謝の気持ちを大切にして、精進していきたいと思います。

合掌